美術館はコロナ危機のために休館を慎重に継続しています。
美術館の動く立体作品展示室の「動く岩」4、7メートル作品は、ニューヨーク セントラルパークの実際の岩を型取りして、鋳込んだ作品です。型取りにはヘルパーの若者たちと10人で10日間をセントラルパークの現地で、レイテックスゴムと石膏で型を作っています。桂子は岩の頂上で石膏を塗ったり、型を26丁目の自宅仕事場へ持ち帰った後も、肉体労働をヘルパーのクリスと一緒に働きました。今は大学で学生に日本語を教えていますが、全くこんな肉体労働もなかなか出来ない珍奇な経験だったでしょう。
思えば、私の父親は1945年3月10日にはアメリカ空軍B29の爆撃機大編隊による東京大空襲に遭遇し、死者10万人の大火災の中を大岡山東工大の駅前から伸びているコンクリートの塀によって、町を焼き尽くす巨大な火炎の伸びて来る度に塀の反対側に移ることによって、生き延びました。
同じ頃、母親は子供達を連れて中国地方へ疎開していましたが、そこでも、赤ん坊の私と従兄弟を乗せた乳母車を押して空襲の焼夷弾の無数に落下してくる爆弾の中を逃げ惑いました。数万の死者がありましたが、幸運にも家族は全員が翌朝教えておいた橋の下に全員が無事に集まることが出来ました。
桂子の父親も広島駅で原爆の瞬間に遭遇していますが、火傷を負ってすぐ現場を離れて半日かかって自宅に歩いて帰り、背中にケロイドは残りましたが80才を越えるまで生き延びました。桂子は戦後に生まれて、家族全員が無事でした。
1945年8月に日本は無条件降伏をして、それから焼け野原になった東京で私は育ちました。米国は日本の児童の全員が困窮して、栄養不足だったので、脱脂粉乳を小学校に寄贈してくれ、それは実に不味いものでしたが、そうして我々子供達はいつも腹を減らしていた日々にわずかな栄養をつけて育ちました。
戦争は互いにできるだけ破壊暴力粗暴の限りを尽くして、あたり一面の荒廃しか残しません。私の子供時代は日本中でほぼあらゆる家庭が貧困の清貧生活でした。
今回のコロナ危機も人類の世界的な戦争と言えます。爆弾が空から降ってこないだけ、マシと言える状況です。
私の上の世代は戦争によって全てを失って、人生を全く狂わせました。私の世代のそれからの日々は実際の爆弾の戦争に巻き込まれることはなく、私個人は芸術という仕事に専念できて来たのは幸運であったとさえ言えます。
家族、同胞に爆弾を浴びせたアメリカに50年も住んで仕事をして、今もコロナの危機をニューヨークに過ごしているのは、全く不思議な運命の織りなす巡り合わせというよりありません。
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